■ 深掘り記事
「ADPがFRBへの雇用データ提供を停止」。ニュースとしては小さな“ケンカ”に見えますが、経済の見方を根底から揺さぶる示唆が詰まっています。結論から言えば、どれだけリッチな民間データが増えても、国全体を映す“基準点”としての政府統計は代替不能だ、ということです。
事実
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給与計算大手のADPは、FRB(米連邦準備制度)への非公開・高頻度の雇用データ提供を停止しました。ADPは**民間給与の約20%**を扱う巨大プレイヤー。
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FRBのクリストファー・ウォーラー理事は8月の講演脚注で、ADPと連携した週次雇用指標に言及。7月下旬の雇用軟化を示唆する材料として参照していました。
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この“提携停止”は、ちょうど**政府閉鎖(シャットダウン)**で公式データの供給が細る悪タイミングで発生。ADPはコメントせず、FRBもコメントを控えています。
構造
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民間データは速く、粒度が細かく、しばしば“ナウキャスト(足元推計)”に強い。Bank of America、Visa、Mastercardなどのカード系も、消費動向を機微に捉えられます。
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ただ、彼らが稼ぐのはデータ販売ではなく本業(給与処理/カード決済)。顧客関係やブランド保護と衝突しそうなときは、提供をいつでもやめられる。ADPがまさにその例です。
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しかも、どれほど巨大でもサンプルは偏る。カード会社は利用者の所得層や地理で、給与会社は産業構成で母集団とズレる。**政府統計の“全国面”**を置き換えることはできません。
影響
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FRBは“データ犬(data dogs)”――「床に落ちたものは全部嗅いで食べ物か確かめる」(シカゴ連銀グールズビー総裁)――のごとく民間データも総動員しますが、政策の土台はやはりBLS(労働統計局)/BEA(経済分析局)/Census(商務省センサス)。
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ところが今、シャットダウンで役所の廊下はスカスカ。例外的に、BLSの約100人が呼び戻され、CPI(消費者物価指数)だけは法定期限に合わせて作成中(社会保障COLA=生活費調整の算定に必要なため)。他の多くのデータは止まったままです。
展望
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民間データは「補完」であって「代替」ではない──これが今回の教訓です。とくにサイクル終盤や景気の曲がり角では、系列の一貫性・母集団の網羅性・遡及改定の手当て等、**政府統計の“基準点”**が効いてきます。
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同時に、政府側も学ぶべき点はあります。発表のタイムリーさ・高頻度化・メタデータの透明性など、民間の強みを取り込み**“公的ナウキャスト”**を磨く。官民の役割分担を再設計する好機です。
筆者の見立て
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ADPの判断は企業として合理的です。ですが、**“民間に過度に依存する金融政策”**の脆さを露呈しました。政策決定者は政府統計の復旧と同時に、民間との“停止条件”まで含めた協定設計が必要です。
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市場参加者は、民間データを見るほど**「偏りの性質」**にも目を凝らすべき。速い指標ほど、何を拾い、何を落としているかを点検しましょう。
■ まとめ
今回のADP騒動の本質は、「データの供給者はいつでも背を向けられる」という現実です。民間データは速く、細かく、しばしばクリエイティブな切り口で景気の“体温”を測ってくれます。しかし、それはあくまで“副業(サイドハッスル)”。本業に不利益が生じそうなら、提供を止める自由がある。ここに、公共財としての政府統計と、民間データの商習慣の決定的な差があります。
政府データは遅く、時に改定も多い。ですが、全国面のカバレッジ、長期にわたる系列の一貫性、無償の公開性は替えが利きません。今回、シャットダウンの最中でもCPIだけは法定要件(社会保障のCOLA算定)により作られる――“ごはん”を欠かさない仕組みが機能したのは象徴的です。市場コンセンサスは、総合CPIが前年比+3.1%(前月+2.9%から上昇)、コア3.1%横ばい、**前月比は総合+0.4%/コア+0.3%**と“やや熱め”。シニア団体の試算では2026年のCOLAは+2.7%。この“数字の重み”は、公的統計の継続性が生む信頼に支えられています。
結局、民間データは“おやつ”、政府統計は“ごはん”です。おやつは元気が出るし楽しい。しかし、ごはんがない食卓は長続きしません。投資家・経営者・政策当局――それぞれの立場で、おやつの“速さ”とごはんの“基準性”を賢く組み合わせる。官側はタイムリー化、民側は偏りの開示。その積み重ねが、**不確実性の時代の“意思決定インフラ”**を強くします。ADPの一件は小さな騒動でなく、データ主権の実務論そのものです。
■ 気になった記事
「やっと出る」CPI:閉鎖下の“唯一の羅針盤”
今夜(日本時間で今晩遅く)、CPI(消費者物価指数)が公表されます。政府閉鎖で統計官庁がほぼ止まる中、BLSの約100名が限られた復帰。理由は明快で、社会保障のCOLA計算に必要だから。市場予想は総合3.1%(前年同月比)、コア3.1%。前月比は総合+0.4%/コア+0.3%。5か月連続の伸び加速という見方が優勢です。
ポイント(私見):CPIが“やや熱め”に出ると、金融政策会合での議論の軸は**「粘着インフレの持続性」に。もっとも、データの欠落が多い局面では1指標への過剰反応もリスク。“一度に食べ過ぎない”**のが賢い消化法です。
■ 小ネタ①
サンフランシスコ、州兵“増派なし”で合意
ダニエル・ラリー市長いわく、大統領は追加の州兵投入を見送ることで合意。街の治安議論は続くものの、“非常手段”の上積みなしは市政にとって一息。政治は“増派”より地道な足腰が効きます。
■ 小ネタ②
CZを恩赦、そして来週は米中トップ会談へ
暗号資産取引所バイナンス創業者CZ(趙長鵬)氏に恩赦。一方、トランプ大統領は来週、韓国訪問に合わせて習近平国家主席と会談へ。地政×クリプト×通貨規律、相互作用が気になるシーズンです。
■ 編集後記
データに携わる人間の“胃袋感覚”で言えば、今日の話はとても腑に落ちます。民間データはうまい。香り高いし、時にスパイシーで、見たことのない料理が次々と出てくる。けれど、それだけだと栄養が偏る。一方、政府統計は地味で、味付け薄め。だけど毎日食べても飽きないし、体が覚える。ADPの件で改めて思いました。私たちは“速さ”に恋をして、“基準”に生かされているのだと。
もう一つ。データは**「誰のために作られているか」で性格が変わります。民間は顧客のため、政府統計は社会のため。どちらも尊いが、危機のときに踏ん張るのは後者です。シャットダウンの最中に、CPIを作るためだけに100人が呼び戻される**のは、その象徴でしょう。ロマンはおやつ、責任はごはん。私たちの意思決定は、その両方で動いています。
最後に、自戒。ニュースレターの書き手として、“速い数字”を愛しすぎないこと。香りに惹かれて皿を空にしても、明日の仕事は“基準”で回ります。データ犬になって床のパン屑まで嗅ぎ分けるのは大事。でも、**食卓を囲む相手(社会)を忘れたら飯はまずい。ADPの小さな騒動は、「あなたは誰のために数字を書くのか」**と、静かに問いかけてきます。今日もごはんを噛みしめて、明日もおやつを楽しみに。バランス良く、いきましょう。
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