「インフレは静かに、政治はうるさく」 2

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深掘り記事

アメリカ経済から、ちょっと意外なニュースが出ました。
「インフレ、そこまで悪くないです」という結果です。

しかもそのデータは、いま米連邦政府がシャットダウン(予算が通らず一部業務停止)でほぼ統計が止まっている中、かろうじて出てきた貴重な公式データです。全米が待っていた“唯一の定点観測”、という扱いでした。

では何がわかったのか、そしてなぜ日本のビジネスパーソンにも関係があるのか。ポイントを整理します。


1. 「関税インフレ」が来ない?という驚き

まず、事実から。

・9月時点の消費者物価指数(CPI)は前年比+3.0%。
・食品とエネルギーを除くコアCPIも同じく3.0%台で、むしろわずかに鈍化。
・エコノミストは「もっと上がる」と見ていたので、いい意味で肩透かし。

ここが重要です。いま米国は、トランプ政権下で関税(※輸入品にかける税金)が一気に引き上げられています。水準としては、およそ100年ぶりの高さと言われるレベルまで、ほんの数カ月で引き上がったと報じられています。通常はこういうとき、輸入品が高くなり、そのコストがコンシューマー(消費者)価格に転嫁され、物価が跳ねる…という“教科書展開”が想定されていました。

ところが現時点では「そこまで来てない」。
この状況を、ある運用責任者は「シャーロック・ホームズ的だ」と書いています。「吠えるはずの犬が吠えていない」=“インフレという犬”がまだ吠えていない、ということですね。

なぜか。記事では「企業が価格転嫁を我慢している」と示唆しています。これは、(私の見方としては)実務的に2つの意味があります。

  • 米国企業が「値上げしたら客が逃げる」と判断し、マージン(利益率)を削って吸収している。

  • そもそもサプライチェーン(供給網)側で、調達先の切り替え・輸送の最適化など、“こっそり血を吐く努力”をやっている。

一見、消費者には優しい話ですが、企業経営サイドから見ると「利益を削ってでもシェアを死守している」図でもあります。日本でも円安・原材料高の局面で同じことが起きましたよね。「価格転嫁できない」という経営課題は、いま米国でも現実です。


2. 住宅コストがついに“鈍化”の兆し

今回のインフレレポートでさらに注目されたのは「住居費(shelter)」です。
CPIの中で住居費はとにかく重い項目で、これが下がらない限り、インフレはなかなか落ちません。

9月は住居費が+0.2%の上昇にとどまり、前月+0.4%から明確に減速しました。
しかも「持ち家の家賃換算」(オーナーズ・エクイバレント・レント:家を所有している人が、もしそれを賃貸したらいくらか、という仮想賃料。アメリカのCPIではこれがインフレの測定に組み込まれている)は、なんと約5年ぶりの低い伸びに。

これは、金利高で住宅が買いにくい→賃貸需要が上がる→家賃が高止まり、という“インフレスパイラル”が、少なくともスピードダウンしつつある兆しと受け止められています。住居コストが落ち着くと、CPI全体も落ちやすくなります。

不動産コストの鈍化は、米国の消費者マインドにとっては相当大きいガス抜きです。家計に占める住居費はとにかく重いので、ここがピークアウトするかどうかは、アメリカの「生活が苦しい/少しマシになった」の体感に直結します。


3. FRB(米連邦準備制度理事会)はどう動く?

このデータは、アメリカの中央銀行であるFRB(Fed)が政策金利をどうするかに直結します。

・いまFedはすでに年内1回利下げ済み。
・このCPIの落ち着きは、「じゃあもう1回下げてもいいのでは?」という根拠になります。
・マーケットの解釈としては、直近の会合(2日間の政策決定会合)で追加利下げに踏み切るムードが強まり、12月にももう一段あるかもしれない、という見方が示されています。

Fitchのエコノミストは「これは“保険としての利下げ”だ」と指摘しています。つまり、景気がまだ崖っぷちではないが、万一に備えて先に金利を緩めてクッションを用意しておく、というイメージです。日本的に言えば「不況だからではなく、不況に落ちる前に布団を敷く」政策です。

ここで押さえたいのは、Fedの悩みはまだ完全には終わっていないこと。
直近3カ月のコアCPIは年率換算で+3.6%。1年前の同期間は+3.1%でした。つまり「依然として目標(2%台)より高いじゃないか」というツッコミは残る。インフレは落ち着きつつあるけど、まだ“許容ライン内”と胸を張れる水準ではない、というのが正直なところです。


4. それでも国民は「インフレしてる」と感じる理由

経済指標では“インフレは落ち着きつつある”とされても、生活者はそうは思っていません。むしろ逆です。

  • コーヒーの小売価格は前年比で+19%。この上昇にはトランプ政権の関税の影響もあると指摘されています。

  • 公共料金(光熱費)は9月こそ下がりましたが、前年比では+約12%近い伸び。

つまり、人が毎日触れる「食べる・飲む・光熱」はまだ高い。そこが下がらない限り、庶民の心理的インフレは終わらない。「統計は落ち着いた?うちの電気代とコーヒー代は落ち着いてないけど?」という話です。

これは日本でも同じですね。CPIやコアCPIが下がっても、弁当や電気代が高止まりしていれば「インフレ終わった」とは誰も思わない。この“肌感と統計のズレ”が政治の炎上燃料になります。


5. 展望:今は「静かなインフレ」。問題は“次の波”

今回のデータは、インフレが思ったよりおとなしい=「とりあえず最悪じゃない」という安堵を市場に与えました。これはリスク資産(株など)にとっては追い風です。金利が下がる期待は、株のバリュエーション(割高さの正当化)を支えるからです。

一方で、リスクは消えていません。
・関税は一時的な政治カードではなく、構造的な産業政策になりつつある。つまり、サプライチェーンの再編コストはこれから効いてくる可能性がある。
・政府シャットダウンの影響で、経済データの公表が遅れており、政策当局・企業・投資家が「現状認識の目盛り」を失いがち。Fedですら、ちゃんと地図を見られない中でハンドルを切らなきゃいけない。

個人的に一番怖いのはここです。
「データ不足の中で利下げに踏み切る」=視界の悪い高速道路で速度をゆるめる判断をするわけです。普通は減速すれば安全ですが、もし後ろから大型トラック(想定外の物価再燃)が突っ込んできたら? という不安は残る。
Fedは“保険の利下げ”と言われるような、少し先回りの緩和に進みつつありますが、その判断材料は従来より粗い状態です。これは金融政策リスクとしては、実はかなりイレギュラーです。


まとめ

今回のインフレ報告書は、経済的には「朗報」、政治的には「ややこしい朗報」でした。

朗報なのは、関税をガンガン引き上げているのに、全体の物価上昇(CPI)は3%前後に落ち着き、コアCPIはむしろ少し下がっていることです。住宅コストも鈍化しつつあり、これまで全体のインフレを押し上げていた“家賃・持ち家換算家賃”が明確にブレーキを踏み始めています。
これは、インフレが「とんでもなく再燃している」というシナリオを一歩後ろに下げる材料になりました。

それは同時に、FRBにとっては都合が良いニュースです。FRBはすでに一度利下げしており、さらにもう一段の利下げ(=金利を下げて景気を下支えする)に踏み切る「保険としての利下げ」を正当化しやすくなったからです。12月の追加利下げ観測も高まっています。言い換えると、アメリカ経済全体には「ソフトランディング(軟着陸)」「最悪は避けられるのでは」というストーリーが強化されたわけです。

…が、ややこしいのはここからです。

まず、生活者の実感はまだ全然ラクになっていません。コーヒーは前年比+19%、光熱費は前年比+約12%高。家計が毎日感じる“痛いところ”は依然として痛いままです。「インフレは落ち着いています」と言われても、「え、どこが?」という反応になるのは当然です。政治家にとってはこれが面倒くさいポイントで、ホワイトハウスが「物価はコントロールできている」と胸を張りたいのに、国民は「いや、スーパーのレシートが証拠」と返してくる。支持率を左右するのは統計ではなくレシートです。

次に、Fedがこの静かなインフレ環境を前提に利下げに動くこと自体が、別のリスクをはらみます。というのも、政府シャットダウンで他の主要経済データが止まっているんです。普通ならFedは雇用統計や消費支出といった膨大なデータを見ながら慎重に金利を動かしますが、今はデータが揃わない状態で判断せざるを得ない。「視界の悪い中でハンドルを切る」ことになるわけですね。これは制度的にはかなり異例で、後で「やりすぎだった/やらなすぎだった」と言われる可能性も上がる。

そして最後に、「関税インフレはまだ表面化していない」というのは朗報であり、同時に“時限爆弾でもある”ということです。企業は今、マージンを削って価格転嫁を遅らせているかもしれない。ですが、それを永遠に続ける体力がある企業ばかりではありません。特に中小〜中堅のプレイヤーは、限界が来たときに一気に値上げをすることになるかもしれない。つまり「今は静かだけど、後ろに波が溜まっている」可能性はまだ残っています。

要するに今回のCPIは、“最悪ではない”という意味でのグッドニュースです。ただし、“もう安心”という意味のグッドニュースではありません。


気になった記事

「2.8%の“賃上げ”がアメリカの高齢者に来る」という現実

アメリカの公的年金である社会保障(Social Security)には、毎年の生活費調整(COLA:Cost of Living Adjustment)があります。これはインフレに合わせて自動的に給付額を上げる仕組みです。
2026年のCOLAは**+2.8%**になる見通しです。これは今年1月(+2.5%)よりもやや高い伸びです。

具体的には:

  • 平均的な老齢年金受給者は月1,955ドル(約1ドル=150円として約29万円強)を受け取っており、これが月+54ドル程度上がるイメージ。

  • 障害年金(障害による就労困難者向けの給付)は月1,446ドルが目安で、こちらも月+40ドル程度の上乗せ。

このCOLAがなぜ大事かというと、アメリカでは高齢者票が重いからです。インフレに合わせて年金額が自動で上がる仕組みは、政治的な“絶対防衛ライン”といえます。これを守ることが「高齢者の生活を守っている=政権はあなたを裏切っていない」というメッセージになる。

ただし、この調整には副作用もあります。高齢者がもらえる年金が上がるということは、財源(税)の議論が必ず後からついてくるからです。今回、社会保障税の課税対象となる年収の上限も、2026年には184,500ドルまで引き上げられる予定とされています。これは高所得者サイドから見ると「また負担が上がるのか」という話になり、ビジネスサイドから見ると「高給の人材を雇うコストがじわっと増える」という話でもあります。

まとめると、COLAは単なる“お年寄りによかったね”で終わらない。
・高齢者には「インフレ分はある程度カバーされています」と伝える材料
・高所得労働者・企業には「あなたの社会保障負担も上がります」と伝える材料
この2つを同時に内包する、かなり政治的な数字なのです。


小ネタ2本

小ネタ①:「敵の顔」を全国区にする戦術、再び

アメリカの下院選挙で、共和党が新たな“悪役カード”を切りました。狙われているのはニューヨークの民主社会主義系の政治家・Mamdaniです。
なぜこの個人が全国区で使われるのかというと、共和党側は「彼の知名度が既に高い(81%が名前を知っているという調査)」「好感度より“嫌われ度”が上回っている」というデータを握っているからです。つまり、彼を“民主党の本音”として地方の接戦区で宣伝できる、と。

これは日本でいうところの「相手陣営の急進派の発言を全国区で切り抜いて、“これがあの党の本性です”と言って回る」手法とほぼ同じです。アメリカ政治はSNS時代に完全対応していて、地方政治家ですら即座に“全国ブランドの敵役”になれる。マーケティング的には非常に効率的ですが、政策の中身は議論されず、ラベリング合戦になる副作用も強いです。

小ネタ②:上院選・資金集めの早押しゲーム

共和党上院選対策委員会(NRSC)は、ニューハンプシャーでの上院選に向けて、元上院議員ジョン・スヌヌを全面支援する動きに入りました。ワシントンD.C.での資金集めディナーの設定が公開され、

  • 共同ホストはPACなら1万ドル、個人なら7,000ドル

  • 一番安い枠でもPAC2,500ドル、個人1,000ドル

つまり「あなたはどのランクで応援しますか?」という“政治版ふるさと納税メニュー”が本番入りです。対立候補も元上院議員のスコット・ブラウンなど知名度の高い顔ぶれで、さらに民主党側の有力候補は既に数百万ドル単位で資金を積み上げています。
要するに、2026年選挙はもう資金戦が始まっているということです。現時点での資金量は、そのまま「どれだけテレビCM・デジタル広告で“相手のイメージを塗れるか”」に直結します。アメリカはやはり、政治も広告ビジネスです。


編集後記

今回いちばん面白いのは、「いいニュース」があまり歓迎されていない感じです。

インフレは落ち着き気味、住宅コストも鈍化、関税の“物価直撃弾”もまだ表面化していない。普通なら「良かったね」で終わりそうなものです。でも実際は、「いやいや、コーヒーは19%上がってるんだが?」という声が即座に返ってくる。統計と肌感覚の乖離が、ここまで政治的エネルギーになる時代はなかなかないです。

言い換えると、いまのアメリカは“みんな不満の理由をちゃんと持っている”状態です。企業は「利益率が削られてる」、消費者は「光熱費が高い」、中央銀行は「データ少ないのに決断しないといけない」、政治家は「シャットダウンで仕事止まってるのに相手が悪いって言い合ってる」。全員が「自分が被害者」と言える材料を持っているので、誰も完全に悪者にされないし、誰も完全にヒーローにもなれない。これは地味にやっかいです。

そしてこの空気が、そのまま次の選挙の武器になっていきます。共和党が特定の進歩派政治家を“全国用の悪役”に仕立て上げようとしているのは象徴的です。敵役を作るのは簡単ですが、問題は“その敵”が実際にあなたの地元のガソリン代や家賃を下げてくれるわけではないことです。政治がキャラ消費化すると、政策はB面になります。

最後に、個人的に気になるのはFRBです。中央銀行は本来、冷静でデータドリブンな機関であるべきとされてきました。でも今は、政府シャットダウンでデータ供給側の官庁が止まり、CPIのためだけに一部職員を呼び戻すような応急対応をしている。要は、「視界が曇ったまま金融政策の舵を切れ」と言われているのに近い。

これはビジネスでいえば「主要KPIが見えないまま年間予算を決めろ」に等しいので、経営者であれば背筋が冷える話だと思います。FRBが金利をどう動かすかはドル金利、つまり企業のドル建て調達コストや投資マネーの流れ(日本株・日本円にも影響)に直結します。なので、これは遠い話ではありません。

インフレが静かにしてくれるのはありがたい。でも、静かになった瞬間に「じゃ、利下げして様子見ようか」と手探りでアクセルとブレーキを同時に触り始めるFRBと、選挙のために敵役づくりに忙しい議会。この組み合わせを見ていると、「危機」は派手な爆発音ではなく、むしろこういう“静かなズレ”から始まるんだろうな、としみじみ思います。

今回のCPIは「犬が吠えなかった話」でした。でも、静かな犬ほど、次に動くときは噛む力が強いのもまた事実なんですよね。

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